部室の時計を見上げて、奏多は小さく息を吐いた。
「……そろそろ帰らないと」
「あ、もうそんな時間?」
栞も時計を見る。
森下は使っていた器具を片付けながら、のんびりと笑った。
「今日は結構やったなー」
「ですね」
奏多も借りていたグリップを持って、器具庫へ向かう。
決められた場所へ戻して、それからARグラスもケースへ――入れかけたところで、栞の声が飛んできた。
「結城くん、充電」
「あ」
奏多の手が止まる。
「そうだった」
慌てて充電器へ接続する。
栞が少し笑った。
「次使う人が困るからね」
「気をつけます」
自分のものではない。
部活のみんなで使うものだ。
最後にもう一度確認してから、奏多は器具庫を離れた。
「じゃあ、お疲れさまでした」
「おつかれー」
「また明日ね」
「うん。また明日」
部室の扉を閉める。
廊下を歩きながら、奏多はなんとなく自分の右手を見た。
もう、そこにグリップはない。
けれど、握っていた感覚だけはまだ残っているような気がした。
今日のことを思い出す。
森下との練習試合。
武器を変えながら戦ったこと。
突然、動きが変わったオーバークロック。
スキルとスペシャル。
知らないことが、まだいくらでもある。
「……」
奏多は何も持っていない右手を、軽く握った。
*
家へ向かう途中。
公園の前まで来たところで、楽しそうな声が聞こえてきた。
「おっしゃ!」
「そっち行った!」
「あぶなっ!」
奏多が足を止める。
公園の中に、何人かの学生がいた。
手にはグリップ。
腰にはスマホ。
一人が勢いよくグリップを振る。
向かいにいた一人が、横へ飛ぶように避けた。
「あっぶな!」
「ブレイク狙えるよー!!」
「逃げろ逃げろ!」
楽しそうに言い合っている。
奏多は少し離れたところから、その様子を眺めた。
「いいなぁ……」
一人がグリップを前へ向ける。
何かを撃ったらしい。
相手が慌てて横へ逃げた。
だが、奏多には何も見えない。
武器も。
弾も。
フィールドも。
ARグラスを持っていないのだから当然だった。
「なんの武器使ってるんだろう……」
目を凝らしたところで分かるはずもない。
それでも、奏多はしばらく見ていた。
やがて一人が休憩に入る。
手にしていたグリップを下ろす。
別の一人も、自分のスマホへ手を伸ばして何かを操作している。
みんな、それぞれ自分のものを持っている。
奏多は無意識に、自分の腰へ目を落とした。
何もない。
部活へ行けば借りられる。
グリップも。
スマホも。
ARグラスも。
練習するために必要なものは、基本的に揃っている。
だから、急いで買う必要なんてない。
つい数時間前にも、そんな話を聞いたばかりだった。
『スマホは安いものじゃないからな』
『本格的にやると決めてから揃えればいい』
「……」
奏多はもう一度、公園を見る。
自分たちのスマホを持ってきて、好きな時に遊んでいる。
何を使っているのかすら、今の自分には見えない。
羨ましかった。
「……自分の、欲しいな」
ぽつりと呟いた。
*
「ただいまー」
「おかえり」
家へ戻ると、父親の声が返ってきた。
奏多は荷物を置く。
そのまま部屋へ行きかけて――止まった。
「父さん」
「ん?」
父親が振り返る。
奏多は少しだけ考えてから口を開いた。
「家の手伝いさ」
「うん」
「もうちょっと増やせる?」
父親が奏多を見る。
「急にどうした?」
「ちょっと……欲しいものがあって」
「何が欲しいんだ?」
奏多は答えた。
「スマホ」
「スマホ?」
「うん」
父親は少し不思議そうな顔をする。
奏多は続けた。
「今日、スマホ部に入ったんだ」
「今日?」
「うん」
思ったより大きな反応が返ってきて、奏多は少し笑った。
「今日、入った」
「そうだったのか」
「それで、部活には貸してもらえるのがあるんだけど」
「うん」
「スマホもグリップも、グラスも。基本的なのは借りられるから、別に買わなくてもできるんだけどさ」
奏多は一度言葉を切った。
「……自分のが欲しくなって」
父親は奏多を見る。
「入ったの、今日なんだよな?」
「今日」
「もう欲しいのか?」
「……うん」
奏多自身、少し気が早いことは分かっていた。
ほんの数時間前には、急いで揃える必要はないと教わったばかりなのだ。
それでも。
帰り道で見た、公園の光景が頭に残っている。
自分たちのスマホを持って集まって。
好きな時に遊んで。
自分たちには見えている武器で、楽しそうに戦っていた。
「欲しい」
今度は、さっきよりはっきりと言った。
父親は少し黙った。
入部したその日に、自分の道具が欲しいと言い出す。
さすがに気が早い。
けれど――。
ふと、少し前のことを思い出した。
仕事の途中。
街頭モニターに映っていた試合を見て、奏多が足を止めていた。
呼ぶまで、ずっと画面を見上げていた。
そして今日、とうとう部活にまで入ったらしい。
その日のうちに、自分のものが欲しいと言っている。
どうやら、簡単には収まりそうにない。
「……そうか」
父親は小さく笑った。
「いいぞ」
「ほんと?」
「ああ。手伝いなら増やせる」
奏多の顔が明るくなる。
「ただし」
父親が言う。
「仕事なんだから、増やすならちゃんとやれよ」
「もちろん!」
返事だけは早かった。
*
翌日の放課後。
栞が鞄を持って奏多のところへやって来た。
「結城くん、部室行こ」
「あ、ごめん」
「ん?」
「今日、行けないんだ」
「用事?」
「うん。しばらく家の手伝い増やすことにしたんだ」
「そうなんだ」
栞は少し意外そうな顔をした。
昨日入部したばかりなのに、今日はもう来ないらしい。
「何かあるの?」
「まあ、ちょっとね」
「?」
奏多はそれ以上は言わず、鞄を持ち上げた。
「じゃあ、また」
「うん。またね」
*
父親の軽トラックの荷台へ、奏多は仕事道具を積み込んでいた。
「それ、こっち」
「はい」
道具を載せる。
固定する。
最後に忘れ物がないか確認する。
「奏多ー、行くぞー」
「うん!」
助手席へ乗り込む。
エンジンがかかった。
軽トラックが、ゆっくりと走り出す。
あの日。
街頭モニターに映る試合へ見入っていた奏多は、父親に呼ばれて仕事へ戻った。
まだ、自分がその競技を始めるなんて知らなかった頃の話だ。
今は違う。
今日も同じように、父親と仕事へ向かう。
けれど今度は――
自分のスマホを手に入れるために。
奏多は、自分からその道を選んでいた。